loach and I

死にたいという折り目の話

 最初の記事がこれというのはだいぶイカれているかもしれないけど、自分の中で大事な結論のひとつなので最初に書いておきたいと思ったのだ。

 うつの大きな症状の1つに「希死念慮」がある。ようするに「死にたい」というやつである。

「誰もが一度くらい考えること」というのがありがちな誤解だと思う。

 残念ながらこの希死念慮は死んだら楽かな?なんて疑問形でもないし抽象的な発送ではない。「死のう」という言い切りだし、死ぬ手段をなんとなくであっても考え始めるのだ。手元にある紐状のものがどれほどの強度だろうか、目の前の乗り物に十分な速度が出ているだろうか。

 そしてうつが寛解しても、この希死念慮は疲れたとき、少し悲しいとき、寂しいときに、ふと旧知の友のようにやって来る。

 これを僕は「折り目」と呼んでいる。

 時々アイロンがけをしたときに出くわす「何をやっても伸びない、しっかりついてしまった真っ直ぐな折り目」にそっくりだ。

 そいつが一度ついてしまうと、すっかり伸ばしてやった気になっていても、ふと力がかかった瞬間に曲がってそこを起点にパタリと折れてしまうのだ。

 病気が治るということは元の状態に戻ることのように見える。でもそうではない。風邪ですらよくよく見れば抗体ができているのだろうし、こじらせれば別の病気になったりもする。うつの寛解もそうだ。うつになる前と後では、何かが違う。そしてそれの1つが、この厄介な折り目なのだ。

 でもだからこそ乗り切ることができる。どんなに死にたくなっても、これはただ古傷が引きつっているだけなのだ、折り目が折れただけなのだ、自分は心の底から死にたいとは思っていないのかもしれない、と。そうやって乗り越える時間が持てるようになるのが、こいつに踊らされずに済む今の所のコツだ。

 

 ただ最後に付け足しておくと、この折り目は決して偽物ではない。その死にたいと思った瞬間は苦く、辛く、本当に死にたいのだ。